人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2024年 01月 24日
和声 事実存在



和声




和声 事実存在_a0060066_08444407.jpg




構造特性


 現代の和声学は、従来の規則論のそれと違って実証的和声学といわれる。その理由はいうまでもなく、検証や分析などの領域拡大によって、概念化できる和声の世界の範囲がほとんど和声の「歴史(原理的に理解できる事象現象)」にまで及んでいること、また理論体系の構成でも、幾多の実在を介した検証を呈示してきた相対的構造体系と、書法の理解にとって必須の実践構造の解明プロセスを私たちが獲得していることにある。
 そのプロセスの起こりは、2000年とするのがもっとも適当であろう。今世紀になって初めて、古典和声に連続5度が存在していたことや、導音進行が限定されたものでないことがはっきりしたからである。そして、新しい和声学の新しい概念枠組を提供した理論構成といえば、何といっても、歴史的実践的実在の検証分析によるものである。この古典由来の歴史的な存在証明は、それ以前の規則論との決別を指し示すものであり、今後の和声学基礎論にとって基本的基準を与えることになったからである。
 しかし、日本的機能理論の演習は断片的な領域の演習であり、そのすべては思考の容易ならない欠如から構成されている。実在現象全体のさまざまな様相のもとで、たしかにその概念規定における論理的な後退が確認できる。規則主義者がとくに好んだ「科学的思想としての」というフレーズは、一時的には人々の気をひくタイトルとなるがすぐに限界が見えてしまう。そもそも理論の構成基盤を変化拡大することは、和声をより自由な観点からとらえ直すことを意味する。それを考えれば、音楽のグローバル化という文化現象は今にはじまったことではない。当然、そのことで表出が一極に集約されたことはなく、いつの時代においても実践には多様性と革新性は存在したのだ。古典と理論の関係を考え直すことで、たびたび新らたな発見に出会うことがある。たとえば中世以降の、そしてバロック・古典派の和声においても、現代和声の複合的な新しいオープンシステムと同じように、その構造は今まで想像されていた以上に多種多様であり、和声の諸研究によってまだ名前もついていない原理があることも判ってきたのである。
 より広範な演習論へと続く道筋を規則主義者はいとも簡単に諦めてしまう。音楽活動一般から身を引いた特殊なところに視点を置くだけで、それを規制しようとする。つまり、創造者の発想や音響的な認識規準の受け継ぎを誤り、象徴化において実践行為の交渉や手続きを曖昧にして根源的な実践的事実を隠している。創造それ自体が変容していくものである限り、そういったものは狭量な観念論に拘束された演習にすぎない。事実から出発する演習とは明らかに異なる。文化社会における共有財産である古典から何も学ぶことはないのか。
 人々が身につける力とは、概念の形成や分析規準の本質的で現実的な演習目標を確保することである。ある古典作品全体を感じながら、作品の芯の部分をくぐり抜け人間が本来享有する音楽性の回復向上を図ることであろう。さらには、個々の古典和声に対して公平な視点をもった構造全体の理論と演習状況が不可欠なのだ。現に、このような理論と演習が非科学的思想などにおいては基本的基準の対象となり得るとしても、説明的思惟の役には立たない。こうした和声学は、正誤を判断し正の実践を行うように要請する基本的基準としてのルールの存在を私たちに認めさせようとするものである。ルールの存在を理論的に根拠づけようとする認識基準はすべて、当然完全性とか公理的とかいった、人間的尺度の外では無意味な観念に負うものである。しかしこの認識基準には、特定対象の現実的現象は、単に対象についての考察と分析を見失った概念からは決して得られない、という点で欠陥がある。またその理論は物理学・音響学の単なる法則としてのルールと、和声の世界の本質すなわち古典音楽の実体としてのルールとを重ね合わせているのであるが、そのためには倍音共鳴の部分論を当てはめ、和声の世界における現象からその必然的現象を推論しているのであって、これもまた認識基準と同じ欠陥を有するのである。
 歴史的存在とその意義について思索する前に、そこに行き着いた経緯を整理しておこう。



# by musical-theory-2 | 2024-01-24 11:56 | 和声 事実存在
2024年 01月 24日
検証分析 ②

検証分析 ②_a0060066_14153898.jpg


 まず歴史的存在という前提が設定され、そこに立ってみてはじめて、人間の思惟がその存在を生成する源であることが、つまり「実在」であることが認識されるのである。とすれば、歴史的存在という前提の設定は、たしかに実在のもとで生起する事象現象にちがいないが、由来証明の不明な規則禁則が果たすことではなく、その規定の限定制約を超えた事象現象であるということになる。これも前に述べたように、理論家は、J.S.バッハやモーツッァルト・ベートーヴェンが和声的思索の思惟的動機によって生成した事象現象それぞれに対する思索も、歴史的存在とその継承によって立ちあらわれたこの事象現象(実在=大作曲家の和声法)への畏敬の念であるとしている。この認識には、それが実在のあり方と連動するものであり、したがって実在がそのあり方を変えることによって変えることができるものだという意味が含まれているのである。
「芸術や文学をもたない社会が退屈であるように、芸術や文学を無視する歴史は退屈である。反対に、歴史と切り離して定義される芸術論や文学論は十分に理解されるとはいえない。むろんすぐれた芸術や文学はそれらを形成した歴史的状況、つまりその偉大さを生み出した状況を超越する。とはいえ、偉大な芸術や文学が時代をこえて生命を保ち続け賞賛されていくのは、やはりその時々の歴史的環境に負うところが多い」(PRINCES AND ARTISTS / Hugh Trevor=Roper /横山 徳爾 訳) 。社会の人々がその芸術性および様式を心から賞賛し、日常的に親しんでいる音楽作品の多くの和声的現象の埋もれていたことこそ、公理的方法よる主張が事実を受容する根本機能をもち得ていない証拠である。
 音楽に限らず、歴史や物語がなければ様式は生まれて来ない。しかし、和声学の専門分野にはそれが「特定枠組のなかの事実」を究明するという存在概念でありながら、その事実の論証において強引なことを言う人たちがいるものである。自分たちは「正しい和声のあり方」が分かっていて、「音楽を正しく聴いている」と思い込んでいるばかりでなく、対象を概念的に定義するに必要な検証において、すでに妥当性を無くした"和声の世界の実際では無視されることがある"という先験的な限定と制約を、すべてを知るための科学的な体系に仕立てようとしてそのいらだちに身を委ねているのではないだろうか。個人的観念論が安易に規則を生み出す論理は、様々な事象現象を生成する概念的本質を自然とみるかたちをとっていない疑似体験からの帰結であり、有効に活用されたように見えてその実危うい。

検証分析 ②_a0060066_14173764.jpg


 対象認識と概念定義の間に実在関係が結ばれていないことによって、明らかにゆきづまりにきている古典和声の検証分析を覆そうとする概念規定がそれである。では、なぜこのような概念規定は挫折したのであろうか。しかもそれを挫折に導いたものは何であったのか。それは、この規定そのものにいわば自家撞着をはらんでいたからである。その結果、限定という枠組での演習の意味は、古典音楽のすべてがもつ特徴の一つの例にしか過ぎず、ある特殊概念を思弁的に成り立たせるための便宜的な理由しかもたないことが指摘されたのである。 20 世紀後半、和声学において公理矛盾が発見されるに及んで、理論を論理的に再構成し、その上に投げ出された規定が妥当であることを確認しようとする実証的研究が遂行されるようになった。とくに公理的方法による理論においては、公理から矛盾する命題が演繹されないことが要請されるが、公理は互いに他の公理から演繹されないという条件を満たすように求められるている。そこで、実証的研究の助けを借りながら、和声分析についての概観的な説明を加えていくことにしよう。そのためには、まず対象の内在的な事実から分析していく必要がある。
 下記の諸現象は、程度の差はあるにせよ、つねに古典和声のなかに存在する。それゆえ歴史的・実践的実在に展開されるこういった事実存在は直ちに理論と演習そして論理的説明にまでに及ぶものであろう。なぜなら、実在のもつ意味とは、相対的とされる「和声の構造特性そのもの」にほかならないからである。

        相対的構造特性: (

             ‣ 声部配置
             ‣ 分割奏と同音奏

             ‣ 構成音の進行性質
             ‣ 構成音の重複
             ‣ 音程の様態

             ‣ 構造特性の変換

前章で述べた「導音進行」の多様な性質と同じように、「基本的前提」となる実在の事象現象を比較検討してみると、古典和声の「事実存在」および「一般原理」が明らかになってくる。

検証分析 ②_a0060066_15481771.gif



 では、「並進行(連続)1・5・8度」、および「属7の和音_第7音進行」についての相対化された和声構造を検証してみよう。


  例 1.
検証分析 ②_a0060066_12270622.gif

  例 2.
検証分析 ②_a0060066_12272747.gif

  例 3.
検証分析 ②_a0060066_14544319.gif


  例 4.
検証分析 ②_a0060066_13330872.gif


  例 5.
検証分析 ②_a0060066_17021719.gif

  例 6.
検証分析 ②_a0060066_20371570.gif

  例 7.
検証分析 ②_a0060066_16381945.gif

  例 8.
検証分析 ②_a0060066_1103178.gif
 属7の和音_第7音進行の「完全4度上行」は、音の上下関係を置き換えると、「完全5度上行」である。J.S.Bachの和声の例を挙げておこう。


  例 9.
検証分析 ②_a0060066_15454273.gif

検証分析 ②_a0060066_11543317.gif


 古典音楽に伝統技法として実在する「並進行(連続)5・8度」、そして「属7の和音の構成音_第7音のさまざまな進行」は、それが美的不正や規則違反という音楽にとって不要な事象現象ではなく、したがって和声概念の何かであり、したがって現実に実在するがゆえにある有効な本質存在を含んでいるのである。言うまでもなく、その和声は親しみのある古典楽曲つまり名曲の中で美しく響いている。話はそれだけではない。そうした和声のあり方を克服しようという同じ試みは、およそ 50 年後にショパン、シューマン、ブラームスが、そして100年後にドビュッシー、フォーレ、ラヴェル、バルトークがふたたび企てることになる。彼らによると、作曲活動とは、歴史的存在にさらされた人間が、和声空間のただなかで、すでに生成されている事象現象という「合理的な実在認識」いわゆる「平均的な実在認識」を根拠に、その創造的想像力を再利用して行なう、自分自身の地盤の確保なのである。
 感性能力に優れた大作曲家たちは、創造を完了した後、後の時代に「不正」と定義された概念を「規則違反・禁則(誤り)」として訂正したのだろうか? そうではないらしい。

「それを、美的不正と判断したことも、不自然な進行と考え訂正したこともなかった 」

 それにしても、歴史上の大作曲家たちは、様々な関係をさらに高次の関係のもとに関係づける概念を習得するために、どのような和声学の専門教育を受け、どのような知識を獲得したのであろうか。しかも、どのような環境のもとであのような創作活動を行っていたのだろうか。それは観念的生産物としてのつくられた限定制約にばかりに目を向ける、感じてはいても意味がよく分からないとは言えない教育や有害無益な知識による環境とは対照的である。古典和声の開放性という創造性の事象現象とその概念定義の間に検証分析によって説明を加える必要があるということは、まさに古典和声の概念的本質が規則禁則レヴェルでは分からないことを意味している。よく考えてみるなら、大作曲家の和声法というものは、記憶や創造の表象という探求によって、過去や未来という次元を開くことができる人間的な思惟と自然な存在を差し出す「熟練を要したであろう実践的実在」なのである。


 概念規定の根拠
 現代では、構造の部分現象を基本的前提にする認識方法に終始していたのでは、対象の構造全体は把握できないという逆説的な事態を物語る。概念は、対象を把握するための道具として考えられ、複数の現象が互いに独立してあるいはそれらが融合して存在するものを定義することとして説明される。特定対象を概念的に論述することは、私たちに対する対象のかかわり方を示すことである。対象の構造特性は生成過程全体に存在するのであって、単なる類似的現象の突き合わせだけでは、現実的な現象における個々の特性を定義することは不可能なのである。それらはあらゆる面において単一の概念とその適用でしかなく、古典の考察と分析から得られたといわれているものは、私たちの経験の範囲によっていとも簡単に反証されてしまう構造認識にすぎない。部分の中の部分においては整合性はある。しかし、全体において整合性も妥当性もない。実体いわゆる実在を否定する主観一元論である限定制約は、美しさの普遍項でもない。つまり限定制約に依存した認識基準は、和声の構造特性を論じていく論理的言説にふさわしくないということであって、もはや特定様式を対象にする象徴機能を指し示す概念としては自滅しているのである。これまで知的な表現者によって継承されてきた思考と選択を概念化する研究が、私たちにとって有効であったのは、現象の現実的な法則を見い出し特定様式の機能性を確保するために、歴史および実践的事実をもって証明される認識方法の確かさをもっていたからである。

検証分析 ②_a0060066_15495989.gif


 和声学において問題なのは、囲い込まれた規則環境の中で、解決の糸口さえつかめず、実質的内実を見失う排他的な演習過程がいまでも実施されていること、そのような和声観が西洋音楽やその文化に対する日本人の国際感覚であると指摘されていることである。もっと具体的に言い換えれば、相対的な概念認識の衰退が理論自体の挫折という、もはやその先にはいかなる概念定義も残されていない実在性否定に視点を定め、その上で理論の過去を引き受け直し、現在の状況を思考するというように理論構成を変換していくのが本来的な和声学であり、それに対して概念定義の挫折から眼をそらし、不定の原則と漠然とかかわり合うようなあり方が非本来的な和声学ということになる。要するに、和声学は事象現象に対する「概念規定の根拠」が何であるかを明確にする必要がある。たしかに、音楽がもつ象徴的な意味は私たちの精神と身体と直接結びついている。つまり、音楽的な状況が変わるに応じて、もし各種各様な形態をとる概念の形成過程におけるさまざまな抽象がなければ、また唯一性の概念定義が固定されそこで止まるのであれば、いわゆる「ひととおりの和声学」といったものはけして意味をもたないのである。
 このように、概念の範囲の全部を占めているバロック・古典派・ロマン派・印象派和声についての抽象が、和声学の基本的前提であるとすれば、その本論、つまり実在一般の概念究明のための分析が概念形成において展開されることは明らかであろう。そして、この本論でどのような「実在検証」が展開されるのかその見当がつかなければ、「和声学基礎論の意図」にしても、いったい何をどう考えるのか分からないことになる。また、その扱い方さえも変わりかねない。この抽象内容がさまざまな疑問にさらされてきた大きな理由はここにある。


 論理的均衡
 ここで私たちは改めて問いかけてみよう。今も昔も意匠が絶えず変化している和声の世界では、自家撞着を固定軸にした理論の構成は果たして可能なのだろうか? もし和声学基礎論の理論体系がいまなお均質化している人間の素質や能力_可能性を発揮し活動させる人間の現実性_が存在しなかったら、西洋古典音楽が滅びるのは明白である。つまり、そうした理論体系が相手にしてきた理論モデルは、可能性が活動せず眠っているルール内部の内容空虚な擬似和声ということになる。疑似和声は人々に熟知されている西洋音楽の和声学において用いられる概念の内包を明確に与える定義によるものではない。規則を原則とする機能的思考は古典の実践には到底及ばないから、自己の個人的観念論に即した和音進行を当てはめてみたり、先入観に動かされてありもしない物理学的実験室をもたない事実と切断された公理を唱えたりするのである。
 それゆえ、私たちは絶えず経験に基づき人間的な感覚を研ぎすまし、様々な和声現象を調べる必要がある。それが事実の検証ということである。したがって、考察と分析は問いかけの一形式であり、問いかけにおいて事実を私たちに教えるのは感覚である。とするなら、真の実体である対象を音源を通して聴きとり、その検証と分析を十分に行なうことが和声学の修得には必要である。検証検証において確かめられた事実に基づく和声学的構想をさらに確かめるために演習が行われる。しかし、そうした演習もまた様々な検証分析によって認識されたひとつの形態なのである。というわけで、18世紀_J.S.バッハの和声、そこにおける事象現象では、特殊な一元的な概念という「考え」はほとんど消滅してしまう。同様に、実証的研究でも、一般的な古典音楽に展開している相対的な実践的実在の分析によって原則の妥当性を批判するので、事実の論述に還元できない命題いわゆる「和音進行の限定」そして「声部進行の制約」という「考え方」は消滅する。そこで、その「和声学的分析」の内容を追ってみることにしたい。



< 和音配列 >

検証分析 ②_a0060066_20411743.gif

 私たちの音楽文化は、芸術を創造的なもの、独創性に関わるものとみなしている。これが、芸術作品というものはすなわち多様における統一をその本質とする、と美学者たちが主張する所以である。音楽教育はもちろんのこと、和声学における思考力の将来を左右するのは独創性によって創出された芸術作品以外にはない。ある目的に向かっての行動が,何らかの限定制約でさまたげられるとき,創造するために、独創的に行動するために、私たちは思考するのである。多くの人が論じてきたように、そういった創造性や独創性を無化することしかできない限定制約を、完成された概念規定として正当化していたのでは、和声学が抱える実体的構造上の問題を論述することは不可能である。それは理論と実践からさまざまな事象を例外視することになり、現実性のない演習には事実によって証明された存在が語られることはない。結果、芸術にとって好ましいとされる実践行為は規則禁則から引き出されたものとみなされ、嫌悪をもってみられる実践行為はどんなものでも規則禁則を逸脱したものとみなされてしまうだろう。和声学は、その象徴概念が形成された歴史的な経緯について、さらには、和声認識の根本原理となる歴代の作曲家たちが共有していた「共通の感覚」について明確に説明責任を果たすことが課題となる。
 何であれ、それを理論として構成する「解釈」がなければ理論ではないというように、特定対象の必要不可欠な解釈を可能にするためには、現実的で有用な「性質」を分析規準となる「概念」のなかに獲得する必要がある。性質の分析はファクターを限定すればするほど、また、概念は一般性を見失った分析結果を恣意的に当てはめようとすればするほど、リアリティから遠ざかっていく危険があることを私たちは覚えておく必要がある。
 たとえば、和声様式に関する象徴化において、現代の実証的研究がいとも簡単に疑問に付した言説_「和声とは 16 世紀ヨーロッパに端を発した機能和声のことであって、バロック・古典派和声はこれに基づいている」_などの認識は、広範な音楽作品分析を介した機能性に依拠する検証があるわけでもなく、音楽理論史の歴史的経緯がまったく見えていない「多分そうだろう」という「推論」によるものであると考えられる。それと同じように「和声学とは機能和声のことである」などの唐突な言説も、ごく限られたタイプの見解にすぎない。なるほど、以前なら和声学講座も学習者も文句なくそういう知見に対して大きくうなづいたかも知れない。しかし、それらは事象を再検証することもなく、根本的な論点に触れることのない和声の命題を放棄してしまった言説である。こういう疲労した断言はいったいどのような教育風土から培われたものなのか? 結局のところ、言葉だけの機能理論に固定化された原則という一元論の行きづまりから、和声に関わる認識方法の主要舞台が多面的に推移した現代においては、和声構造に関する歴史の概要も、実在和声から得られる多数で多様な概念の解釈もすべて、初歩的な基礎論の課程においてすら論証することができないのは明らかである。


 知的情報
 ひと昔前の規則主義者たちが行った分析状況を見ると、分析方法の基本的基準そのものに問題があることがはっきりした形であらわれる。つまり、定義を性格づける多様な知的活動という分析そのものを人任せにするため、その象徴化は、超越的思弁に呑み込まれ部分的に当てはまる範疇というイメージ程度のものでしかない。常識をもって考えてみれば、そもそも、 18 世紀バロック・古典派時代の和声音楽が、それ以前の伝統的な旋法性や音楽理論にもとづくことはあり得ても、それより100年後にあらわれた 19 世紀的機能理論という和声解釈論が反映されたり、「古典の一般的な分析データを公表もできないルール」にもとづいて創出されることなどあり得ないのである。とするなら、「モンテヴェルディの時代にはいわゆる和声学などはまだ存在しない」「機能理論に準じた構造をもたなければ和声とはいえない」、「現在の西洋音楽のほとんどがこの機能和声によって成り立っている」、といった歴史観は、論理的バランスと歴史的コンテキストを失っているために内容がない。しかもルールを西洋バロック・古典派時代の作曲家たちが実践した和声法に照らし合わせてみると、そのルールは皮肉にも普遍的な概念として定義することはできず、たとえ「大作曲家たちをルールを知らない"やから"」と決めつけたところで私たちがこういう見解によって満たされるわけではないのである。
 どのような分析も、対象とする様式特性を明確にする必要がある。規則決定者は古典和声の歴史とその構造との関係を記述したのであろうか? それとも「自分が描いている限りでの構図」を論じたのであろうか? 和声学における大抵の原則は実証学的困難を提示する。事実存在および性質的規定は1つの性質を示すのみである。とくに、古典を分析する際に、単一の性質を認識基準に定めその視点から作品の説明をしたりするようなことはよく見受けられる。指摘する点は、方法論の確立である。モンテヴェルディや J.S.バッハの柔軟な思考で築かれていった様式特性すなわち段落と終止和声をあげることによって、現代和声学の組織的な理論体系が構築され、この実用化が和声学に不可欠となった。となれば、私たちとしては現代的な検証分析の助けを借りて対象とする様式特性の事実存在を次のようにまとめることができる。

検証分析 ②_a0060066_16504307.gif

検証分析 ②_a0060066_18173843.gif

検証分析 ②_a0060066_15451538.gif

検証分析 ②_a0060066_15453056.gif


検証分析 ②_a0060066_10593933.gif

 その実在的な和声対象に対する旧態和声テキストの規定は、すでに 18 世紀西洋音楽の実際的な和声の様式特性はおろか、現代の古典的音楽作品に関わる分析結果においても妥当性をなくしている。なぜなら、「機能論的思考」が、歴史的経緯の再検証と実践的実在にまで移行することによって、はじめて「実在論的思考」に到達できるものである以上、古典の恩恵を受け歴史に学ぶ人間としての自覚にいたったとき、理論家がルール構築のために行う象徴的概念化は社会に展開する価値ある文化的存在へと立ち返ることができるからである。しかし、少なくとも和声学の実情が示すように、もし現象の多様性の考察を怠った認識論をあえて擁護しようと考えれば、古典における和音進行・声部進行の可能性および段落・終止和声の調システム構造とは矛盾する。さらには、たった一つの事象現象しか問題としていないため、理論でありながら説得を通じた証明と論理的次元を無にする。
 そればかりか、西欧とは歴史も文化も異なる環境にある学習者は西洋古典音楽を需要はしているが、聴覚が単純なので見てすぐ分かる一元的な機能和声の構造以外は理解することが難しいとか、ピアノ初級教則本のような和声構造からはずれた事象を示しても、「十分に理解できるはずも、されるはずもない」といった言いわけを大袈裟にもち出すしかないのだ。とはいえ理論と演習において、将来的に手かせ足かせとなる現象のありのままを伝えていない概念が一般原理として扱われていることを、私たちはけして見落としてはいない。そこには「教育的メンテナンス」の混迷した過去の集団授業という時代状況がいまも色濃く投影している。周知のように「事実の単純な説明に還元できない認識方法に依拠する概念規定」、「規則主義においては唯一論の十全な論理とはなり得るとしても、説明的思惟の役には立たない論理」、さらには「多様な実体を現象のさまざまな函数関係に置き換えることができない一元化」は、もはや既成事実となっている。
 理論と演習はここで、その根本的に解決のできない問題をあらわにする。それは、私たちを当の問題から引き離す。要するに、バロック・古典派をはじめ、ロマン派・印象派の多様な和声様式を、D 諸和音の借用を乱用した機械的な和音解釈論を前提に、どれもこれもを一緒にして定義することは誰が考えても適切さに欠けていたといえる。それらは教会旋法に由来する古典的和声様式の諸概念にそぐわない横暴な定義であり、いまなお音楽理論史、それに加え、伝承された作品分析データを直視しない疑似象徴化によって誤りをおかしていた。そのために、芸術作品のなかの和声現象が残酷に痛めつけられた理不尽な例外という枠組設定や、事実の誤解によってつくられた無頓着な規定を拾い集めるという、取るに足らない代償を得るのみであった。しかも和声学における基本的なシステム論の代わりに、創造的表現という現実的な実践とはほとんど無関係である"声部の書法"、いわゆる人間の根本体験を説明できない"揺れ動く原則"、または、機能和声を命題とする説明でありながら、その目的さえ定義できない"情動的な機能離脱"などの言説に甘んじることを余儀なくされていたのである。
 異なった諸要素の間に統一的な視点を設け、相対的な「感覚」と「思考」もってこれを連係させ表出を実践する場合、その全体的平面を「システム」と呼ぶ。各構造特性の独自の表出、および、各構造特性間の関係がいかにあるかを、具体的に考察することを「事象のシステム論的考察」という。    
 ところで、私たちはすでに古典和声に関わる実在的事象現象_導音・並進行(連続)_についての探求可能な領域のシステム論的考察を加えてきた。したがって、そこから次のような結論を導き出すことができるだろう。


       Q1) 「和音進行の実体」とは?
          
            多元的な和音進行の可能性 :

 より認識領域を広げ、現実的な考察と分析とに結びついて大作曲家の合理的実践を対象にすれば、多数で多様な必然的で有効な現象いわゆる全方位的な和音進行の実体が検証される。それらの進行はいずれも、音楽基礎理論の累積的過程の形成に必要な音楽文化社会における人間の共通感覚として、また、直接的な検証にもとづく法則として追試可能な現象であって、その概念的方向と視点は、まさに古典和声の真実在を究明するための「事実による証明」をともなう「基本的な認識基準」である。

       Q2) 「導音は限定進行音」の概念は、和声学的定義によるものなのか?

 導音は限定されることはなく、様々な進行を担い、多様に変化する開放的な性質がその本質である。多種の導音進行の事実存在は西洋 18 世紀_バロック・古典派和声様式における自明な構造特性であり、それは恒常的・本質的規定、導音の存在する事象現象がそれ無しには考えられない性質、すなわち、音楽における歴史上の本来的な実践原理である。

           [ N.B. 1]

            実証的研究によれば、18世紀 _ ドイツおけるJ.S. バッハや古典派の作
            曲家によって実践された「導音の自由な進行」という機能システムは、そ
            れ以降のロマン派・近現代和声における様式と書法の壮大な発展を可能に
            している。このことからも、事実の存在を均質化し、その内的本質には少
            しも関わりのないテキストごときは、西洋における和声の世界を支えても
            いる基底_イタリア・フランス・ドイツ和声_と一致しない。


       Q3) 「導音重複」の様態は、古典音楽_バロック・古典派・ロマン派和声において禁じられていた事項なのか?

 それが禁則という原則は、あまりにも過激的であり、どうもその基本的意図のうまく読みとれない原則である。しかし、いずれにせよ古典和声の客観的な検証において、導音は限定進行音ではない事実が証明されているのであるから、和声学基礎論においては「導音重複」が実質的に妥当性のある一般原理として存在することは明らかである。とすれば、J.S. バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンが試みたように、導音を重複した場合には、それぞれを「別の方向」に進めればよい。


                   a:導音が重複されない和声  b:導音が重複される和声
                          ↓            ↓
検証分析 ②_a0060066_11391408.gif

検証分析 ②_a0060066_11393547.gif

検証分析 ②_a0060066_11162444.gif

検証分析 ②_a0060066_11164069.gif


       Q4) 「第3音重複」を終始拒否する演習で何が得られたのだろうか?

 和音構成音_第3音重複は、響き全体に関わる感受面の違いを創出する。それはサウンド・エフェクトに欠くことのできないエッセンス。バロック・古典派和声様式における重要な和音形態の素材である。

       Q5) 「連続(並進行)5度は禁則」なのか?

 古典和声のすべての和声では、禁じられてはいなかった。要するに、従来的な和声学分野に、現代の学習者に混乱をもたらしたとされるその禁則は、まったくの誤解にもとづくものか、さもなければ、かなり漠然とした気分を通じてのものだった、ということである。だが、はたして「バロック・古典派和声」のもつ意味はそれだけに尽きるもであろうか。研究者はそうは考えていない。古典和声の検証分析を踏まえれば、そこには相対的な構造特性として「並進行(連続) 5度が表出された和声」が明確に存在する。

 大作曲家は「並進行(連続)5度 」を見落としたのではない。もしそのような言説があるとすれば、それは西洋音楽の実践的実在性の否定に向かわざるを得ない。その声部進行と響きは、中世的和声形態いわゆる「シンフォニー」のひとつである。 18 世紀の作曲家はだれもがこの伝統的な和声法を継承しているが、とくに、J.S.バッハは「導音和音の解決」という表出において、モーツァルトは「ユニークなエンファシス」の手段として用いた。


検証分析 ②_a0060066_15480546.gif

       
       Q6) 「連続(並進行)8度も禁則」という定義で和声学が成り立つのか?

 並進行(連続)8度進行とその響きは、西洋和声の歴史的原風景であり、声部書法の多様な機能と強調のために必要な「パラレル・ツール」、そもそもバロック・古典派・ロマン派の音楽作品の和声システムはもとより、和声表出には有用な象徴的機能として定義されるエレメント。( 以下、和声学:調和声/拡張的調和声 参照 )

          [ N.B. 2]

             和声の起原以来、和声が音楽空間に拡大すればするほど表出に加わる並
            進行(連続)の要素が増え、それとの関係も多岐にわたるため、古典和声
            の事実存在の本質的規定においては、こうした「システム」としての捉え
            方や分析は、ますます重要な意味をもつに至っている。
             ちなみに、大ホールで壮大で重厚なサウンドを響かせるパイプオルガン
            は、その典型例であり、きわめて広領域の並進行(連続)5・8度音程に
            よる進行システムの発生装置を装備した建造物である。私たちはその並進
            行による和声を音色変化のためにあるなどと理屈をつけながら聴いている
            のではない。響きそのものを聴くのである。

       Q7) 実在概念を相対化してみることのできない「限定進行音_属7の和音の第7音進行」は
          古典和声の概念形成における基本的構図であろうか?  


 バロック・古典派およびロマン派の和声法の検証において、「属7の和音_第7音進行」の現象は、1) 長・短2度下行、2) 長2度上行、3) 完全4度の跳躍進行、4) 保留」の4種が一般原理として確認できる。また、導音重複という古典的な現象と同様に、第7音進行の上行・下行の概念融合による「属7の和音_第7音重複」の現象は、和声現象として歴史的に引き受けられた存在であるがゆえに、それは例外的な存在ではなく現実的で適正な存在であり、第7音の属性の条件としての第7音の存在そのものである。しかも、第7音重複は古典和声のなかに「言い開き」をすることもなく存在している。
 とすれば、概念規定というものは、和声生成の原初から現代までを視野に収めた事実存在の歴史的展望をまとめた無限といっていいほどの事象現象の総称であるから、限定進行および禁則は1970 年代に荒れ狂った規則主義の不確実な概念定義による便法的な規定である、といえる。たとえば、古典派和声という時代にしか存在しない特別な限定を概念化するには、上述のような検証分析によってはじめて現実的かつ有用な概念定義が可能となるのである。つまり古典和声の定義概念で限定制約といった規定で説明できるのは、断片的な部分であって、大部分は歴史的・実践的実在に依拠した実体論的思考がその実質的内実を示してくれるのである。実践的実在とその検証分析の道筋をたどってみると、古典和声の構造特性には、声部と声部相互間における進行、そして和音構成音の重複と省略による事象の複合共存の事実が確認できる。その性格はつねに2つの意味をもっている。したがって、検証と分析の結果を論述した前章および上述の Q1)~ Q7) に対する説明は、事実に基づく古典和声の基本的な概念的方向_「相対的存在論」_であり、私たちの事実との関わり方を示しているといえる。
 現代の和声学は、検証と分析の蓄積によって、可能性が活動せずに眠っているような概念を逃れ、人間の理論的思考活動のなか、とくに、事象現象のもつ根本機能を浮き彫りにして概念枠組や演習のための基本的基準を提供している。基本的基準が有意味であるためには、実在の直接的な検証作業が必要であるということになる。当然、この作業から得られる分析資料と結びついてはじめて成り立つのであるが、その資料の考察によって広い領域の眺望が開かれ、私たちがもつ知識体系を高次化することができるということを明らかにした。これを可能にしているのが「本質的定義」をもたらす「理論体系の一般性」である。



# by musical-theory-2 | 2024-01-24 11:55 |   検証分析 ②
2024年 01月 24日
認識基準
認識基準


認識基準_a0060066_16142476.jpg


 私たち現代人は、古典的な音楽のあり方には、和声学的な「様々な属性」があることを知った。すなわち、歴史的な古典音楽の実在性原理は、和声の世界の事象現象に対して開放的な属性を認めるからである。その実在検証によれば、バロック・古典派・ロマン派和声に限ってみても、規則禁則は矛盾であることが証明されるわけである。連続進行と導音進行が多様に存在できる。従来の和声テキストでは「禁じられる・限定される」という概念であったが、実証的研究によってその概念は一変した。現代和声学においては、連続進行そして導音進行はけっして「禁則」や「限定」ではなく、事象とそれを成り立たせる現象が互いに生成をくり返す動的な世界、まさに「ありえて自由な世界」なのである。
 対象が何であれ、それを理論として定義する実質的な検証がなければいい加減な理論でしかないというように、必要不可欠な説明を可能にするためには、確たる事実存在の本質的規定を言説の中に獲得する必要がある。定義概念を明らかにする分析を断片化すればするほど、生きる人間の判断・選択を本質とするリアリティから遠ざかっていく危険があるのだ。たとえば、文化社会において、人々から認められている多くの古典は誰が創造したものなのか。芸術家たちはその創造者ではないのか。そうした想像力は何によって育まれたものなのか。そんな深刻な疑問を抱かざるを得ない。
 いったい何を調べたというのだろう。「西洋18世紀_バロック・古典派の音楽作品を分析したら、しかもその美しい響きを分析したらそれがルールとなった」を訴えかけるのであれば、その実践的な事実を具体的に示してみせることが解説というものである。しかし、これは「芸術作品に存在する現実的実践」を注意深く研究することによってしかなされない。古来、普遍主義的な目的をもって研究を続ける音楽理論家は、自らの作品分析結果に誤りがないかどうかを監視しながら信念をもって何度も現場に足を運ぶのが常であった。いずれにしても、こういう肝心なことには言及せず、受け売り的な文言の中だけで論述していても、ルールの内実を他と区別して古典和声とする論理的な質性すなわち統一や多様性、歴史的コンテクストや開かれた構造からなる定義概念、有効に機能している伝統的な実践や概念融合による新しい構造特性へのアプローチ、こうしたものをルールが有しているという確たる証拠を構成する解説はできないだろう。
 対象の検証を軽んじる思考はたとえ意図しなくても実在誤認に陥る。いいかえれば、和声に対する唯一論の概念という実体を平板化する単純性の概念に依拠することになる。つまり、「古典的とはどのような歴史的背景を踏まえた概念規定なのか」また「正しいを指し示す概念とは何を視点にして行われた認識基準なのか」さらに「それはどのようなコンテクストによる象徴的機能なのか」、そして「ルール完成のための概念化を可能にする作品分析の領域をどのようにして決定したのか?」を説明することができない。しかし、和声学が概念の属性を明確にに与えてくれる理論と論理で構成されるものであるなら、理論家は自分の手でそれを証明する必要があるだろう。というのも、その論証さえ人任せにして自分では譜例をもって具体的に示すことができないのであれば、公理定理に名を借りてJ.S.バッハの貴重な音楽遺産を「不可」と言って焼き払い、ベートーヴェンの和声法は規則破りときめつけ、音楽芸術という歴史的概念(バロック・古典派和声)のもつ事象内容を踏みつけにすることと同じである。
 少なくとも、歴史上に名を遺した創造者たちの実践した表出が機能不全となるようなルールを和声学における理論と演習の指標と見なすのは間違っているし、功利効用を価値基準とする規則主義が実証的研究もない矛盾したものを「普遍項」と見なすのも不正確である。 18 世紀的な音楽思考の発展や形成において、それらは結局、真の基準を見いだすための認識根拠とはならず、せいぜい基本的な問題を厄介払いする珍妙な論理学に属するものである。なるほど、規則主義者にはこうした理論の命題はそう難しい問題には見えなかったのだろう。 
 実は、規則主義者がルールという認識規準によってその命題が解決されたと思った後に「本質的な問題」は現われたのである。創造的な和声領域の構造特性は、ルールに従ったわけではなく、生成の伝統的な諸機能を引き受け、慣習には否定的ではあっても、有効に機能している結果によって絶えず豊かになっていったことは音楽理論史が証明している。西洋 18 世紀的な思考が生きる相対的な世界において、そこに安らいでいる実在現象はいずれも和声の一般原理となるものである。西洋クラシック音楽は、この言説を裏づけるそれらの響きをたっぷりと聴かせてくれる。形態学からしても、固定化した諸概念という一元的な定義と規定は考えられないだろう。
  では、いったい「和声学が必要とする目標」とは何か。機能和声_"声部書法"における"原則"のパラドックスが発見されるに及んで、原則を厳密にかつ理論的論理的に再構成し直し、その上に成り立っている謎めいた楽曲分析の方法が、現実的に有効であるかどうかを確認しようとする実証的研究が行なわれるようになった。「原則の存在は事実であるという根拠は、あらかじめ原則の信仰を有する人間以外には説得的ではなく、もし、私たちが置かれている歴史状況を直視し、先験的な原則の存在事実が証明されたなら、原則は存在しないからである」。
 たとえば和声の一般原理として現実的具体的な実践を選ぶとするなら、どうしても帰納的な概念化がもつ意味をめぐる概念的本質の問題が生じてくる。なぜなら、原則の存在事実が正当であるか否かは、個々の検証データを実証的と言うに足る一般的な概念定義にまとめ上げる普遍的な能力、すなわち人間に与えられた能動的な思考力がどのように働くかによって決まってくるからである。
 要するに、「私たちの芸術体験に近づけ、その役割の強度を高め、それに向かって努力を集中すること」、そして、「かつて存在した実在の多義性や可能性に応答すること」であろう。和声学の理論と演習が必要とする目標は、和声の世界の活動領域および本源的な質性を見極め、実際に存在する古典音楽の和声が認める「実在現象の還元」にほかならない。



# by musical-theory-2 | 2024-01-24 11:53 |   認識基準
2024年 01月 24日
創造的想像力

創造的想像力_a0060066_16162811.gif


 基本的基準
 「和声学研究」による諸概念は、和声という「概念的事実」の存在領域が対象であり、「和声法研究」による諸概念は、生成の究極要素を明らかにするものであるから、個々の作曲家が用いた可能性が活動する技法という「概念的本質」の存在領域を相手とする。だが、この両者が共通の場に登場するようになろうとは、1990 年代に入るまでは誰も予想しなかったことである。しかし、その年代に入った頃から、事実の実証的研究から始まる共同研究も行われるようになり、事態はすっかり変わったのである。両分野の研究の合流点、それが「創造的な現存在_西洋古典音楽のバロック・古典派・ロマン派・印象派の和声」と「本来的な生成要素_相対的な現象によって構成される基本的特質」である。しかし、この「現存在」と「生成要素」はどの場面で追究されるのかに応じて、命題は同じではないが、歴史的実践的実在に基づく和声法研究の視点がなければ、事実および本質を理論的に追求することが果たして起こりえたかどうかは疑問である。いずれにせよ実在という古典和声側から得られる分析資料には、見逃せないものがある。
 実証的研究は、「現存在」を「事実の存在」と呼び、「生成要素」を「本質の存在」と呼んでいる。それについて研究者はこう述べている。「すべての"事実の存在"は、それが無ではなく、したがって"それ自体が和声"であり、したがって"事実の存在"であるがゆえに、人間的実験場という"本質の存在"を提供しているのである」。いずれにせよ、この不可分の関係が、すでに両分野の間にできあがっているのが今日的研究の現状である。とすれば、これらを結びつける研究は、おそらく現存在と生成要素への「誘導路」を手に入れたにちがいない。
 ところで、和声学の対象となるものは、「事実存在」における現実的・具体的に統一された概念について語る「検証分析」や「概念定義」などの間にある相互関係であり、「本質存在」の実証を通して象徴される「概念的構造」そのものである。そうであるなら、実在的な概念定義が目指すのは諸科学において用いられる_「明証性の原理的な表明」と、合理的体験や検証に基づくつまり知識体系の構成のための_「現実的で有用な構造の解明」である。対象を概念的に規定するということは、人間が享有する自然な共通感覚を2分化し、一方を否定してしまう美学的擁護の代理の満足に逃避してしまうことではない。とするなら、その基礎論が、古典音楽の一般的な事象現象の相対的な機能性と絶縁するとき、それは単なる便法に変貌してしまうのは明らかであろう。したがって、和声の体系的構造の概念規定は、論理学、物理学、社会科学と同様に、事実に対して不整合とならない、および本質と矛盾しない独立性・完全性という条件を満たすことが求められているということになる。
 むろん、明証性の原理的な表明と知識体系の構成とが近世以来かかえる和声学の主要な問題の1つは、知識がいかなる視点と能力によって獲得され得るのか、という、その「起源」に依拠する有効で音楽的な「構造認識」の問題に関わるものである。しかし、古典和声の事実考察に基づく知識は果たして獲得は可能であるか否かをめぐって、実証的な構造認識と実在の「現実性・効用性」は、規則主義的な観念論からみて必要のないもの、しかもその獲得は不可能という判断は当然で整合的である、と考えるのは早計であろう。そうだとすれば、和声学は、知識の構成にあたって、まず、特定対象の和声の伝統的なメッセージに対するコンタクトが必要とされ、さらに、唯一性の概念への一切の志向を斥け、人間の様々な思惟・存在・実践の状況と相対的である概念定義をもたらすことを目指す観点に立って、事実の存在説明に厳密に還元可能な基本的基準を提供することが、古いようでいてつねに「新しい課題」であると、現代人は指摘している。


 根源的知識の分配
 和声学の概念の論説には、特定対象の検証データが存在していることが前提であった。とはいえ,その概念定義が歴史的・実践的実在の可能性すら否定してしまうなら、また、もしその概念規定が事実を均質化したうえで「古典では普通あり得ない限定的な和声」に注意を逸らしてしまうなら、和声学の完成度は不十分ということになる。
 従来、とくに公理論を唱える主張においては、概念規定がその在り方方を変えることによって実在の在り方を変えることができるものだという含意があることを理解できない規則主義者たちには、時代・文化・思考のあり方に応じてどのような和声においても存在する相対的特質の一方を不適正とし片方だけを容認する傾向があった。しかし、どうやってこんな見方を実体化できるのだろうか? 実際には無理である。その代わり、このような見方は根源的な人間的実現行為の固有の価値を支持し経験的認識を組織的状態に導くための肯定性、そして、人類がつくりあげた文化社会が有する様々な音楽活動状況と常に相対的である、ということを認める基本的基準の不在によって支持されるのである。きわめて分かりやすいことであるが、こうした見解が実証的な反論に直面することはまったくあり得ないことであった。なぜなら、そのことだけをそのように教え込まれた人間からの反論はあり得ないし、事実の実証的研究に関わらない人間たちは、この見方と論議するだけの力量も関心もないうえ、そうした論議を自分たちの世界には「何ら影響しない無関係なもの」しかも「趣旨の分からない戯言」として無視するのが通例であったからである。
 「片方だけの概念規定を正しい」と断言する本当の意味は何であろうか? もし和声学的な立場から定義することができる実践的実在といった現に存在するものがあるとするなら、対象の検証分析とルール規定の後進性がこの事態を招いたことは教訓として議論する必要がある。概念規定の論議は、知識の種類、形態、質性、事実をめぐる問題に関してさまざまな方法を派生させ、一元的論的満足に対する批判を超えて理論構成に関わる認識根拠とその過程の批判的な問いかけへと導いていく。それには3つある。すなわち、観念にとらわれた努力なき受動性、認識の発展に役に立たない空虚な表面性、そして現代社会における学問の基本的命題に対する問いかけ、というもの。この「公的な失敗の正当化」が「無関心を求める準拠構成」を指しているのは、もはや当然のことであった。


創造的想像力_a0060066_14483897.jpg


* 根源的知識 *


 クープランの提供するフランス和声は、それは音楽的で合理的な人間の現存在に密着している。とすれば、クープランが 得意とする同音技法において、限定的で単一な規定の領域が入り込む余地はまったくないといえる。_確かにクープランは、_クープランは示す。環境世界における現存在の構想に従うならば、「土着的、限定的導音進行などは存在せず、導音進行が存在するのは歴史が存在する領域で、すなわち人間的現存在つまりは伝統的様式を駆使する現存在が活動する領域でしかない。歴史の過程において、自自己の音楽制作によって諸技法を開示する作曲家は「経験的、修得的、現存在に生きる、実践的概念」であって、技法の概念規定はこのような実践的概念以外の何物でもない。人間が存在しないならば、また、歴史が存在しないなら、技法は無でああり、ただの_技法なき技法論_でしかない。したがって、検証分析を拒否したのはフランス和声が理解できない人間であり、無根拠主義者はこれについて以下の3点が指摘されている。
 「1」_仮説的公理的演繹によるルールには不可避に実践的事実に対しての負の連鎖が伴っている。この連鎖を通して、私たちはそのルールに歴然とした間違いがあることを知るのであり、和声の事実がどのようなものであるかを指摘できるようになるのである。それは、何らかの超越的思弁に定義の根拠を委ねるような倫理ではなく、規則禁則を決定する際のリスク_選ばれなかった他の可能性を例外と決めつけ切り捨てる概念規定とその視点および客観を理論的に定式化しようとする際に、誤った選択をおかす危険_を避けがたいものと自覚する「倫理」である。
 「2」_変化を恐れる規則主義者と理論解説者は、従来の古典和声学はパーフェクトである、と説明するが、そうであっても実際との不一致をかかえた基本的基準の疑問は常につきまとう。分析不十分な概念規定の出現以来、こうした不確かな言説の信頼性は失われている。古典和声学は、観念論に手足をつけたような論理を隠れみのにして妥協するのではない。対象の事実に基づく検証の結果を示し、多くの疑問に対する抜本的な修正こそが社会に応える道と考える。学問における認識根拠や定義概念の解説をしようとするなら、その完成度がどの程度であれ、他人まかせの検証に責任を転嫁することはできないのであり、それ自身が全力をあげてその負担を背負う必要がある。
 「3」_歴史的存在の否定的概念を判断基準とする観念論の方が「概念規定」はしやすい。だが、事実を還元するその判断基準が「正確か」という問題がある。また、基準によっては提供される側が犠牲になることがある。このことは概念規定の原則的意味を示す「核心部分」である。理論家に言わせれば、概念を事実と照らし合わせることをしない人間は「歴史」や「実践」について説明することができない。言い換えれば、文化社会や私たちがそうと信じている人間的実現行為によって生成された現存在、つまりは歴史的・実践的実在の概念的本質についての説明ができない。
 創造的存在と呼ばれているものの概念的本質とはいったい何であろうか。歴史を創造する人間にとって、創造とは、歴史的な行為のすべてが有する表現の可能性を指していることはいまさら繰り返すまでもなかろう。人間の思惟(能動性)と存在(伝統性)が検証できれば認識の領域は広がる。現代社会にはそれに関わる情報が多種多様なチャンネルによって準備されており、求められるのは、その「思惟」と「存在」を指し示す古典和声のもつ明証性を原理的に表明できない限定の規定ではなく、その実体的概念の本質的規定と直に触れ合うための根源的知識の分配である。
 ところで、私たちが生きる音楽文化社会と同様に、西洋古典音楽のコンサートで演目に登場する「創造的な現存在」_古典和声が存在した事実と、その現存在に和声法として立ちあらわれる「本来的な生成要素」_歴史において継承され実在する概念的本質が、学的方法としての和声学基礎論において、そうした根源的知識が原則として認められる日は来るのだろうか。というのも、「人間の自然な聴感覚は、個人のみがそのように聴いているような、大作曲の音楽制作(文化的な合意)や作曲技法(教育的な期待)によって束縛されない評価基準(概念規定)を求めて学習者がそこへゆきつくような、現存在否定の領域として説明される」からである。しかし、歴史的存在と人間的現存在に対して実在和声や聴感覚を価値的に低い領域とみなし、さらに、例外的領域でしかもありえないとさえ評価してきた認識基準が時代遅れで、それが終わったことを、将来を自覚した学習者はすでに知っている。


 創造的想像力
 現代の理論家その他が指摘する 19 世紀的機能理論以後の実証的研究が、旧態の原則規定に先立ち、検証の方法と領域が拡大し、思弁的象徴化から、実証的象徴化へとイノヴェーションの中心が移ってきた現代および将来において、実在忘却の時代から、過去や未来という次元が開かれる実在性を肯定する時代への転換で起こる和声学の諸変化は、妥当なことといえる。いまや、自明な原理また道理の基礎と考えられている共通感覚を共有するためには、和声学の基礎論生成の原点に立ち戻り、事実の論述に還元可能な_「検証への参画」_が必要なのである。
 概念の形成に関しては、私たちの周囲に存在する対象について、一般的なものを概念化することとして説明されるのが普通である。しかし、少なくとも事実を隠したまま深堀りするとき、その世界観は実質的内実を見失うことになる。考察に基づく現象間のあり方を洞察するに際して、なぜ実践的関心を満たすために知ろうとする人間の思考を無視したのか。なぜその柔軟な思索をやめたのか。これらの筋道をうやむやにしては、和声学が、自己調整可能なターミナルとして情報を収集し、解読・伝達・交換することのできる理論的知識に連なるものとは考えられない。私たちが生きるこの時代が和声学に課した試練は、公理的方法への従属的な再確認で乗り切れるほどたやすいものではない。さらには、いまでも限局的概念に原則を求め続ける`和音の進行`、端緒に立ち戻ることはできない`限定進行と禁則`_経験的に「事実の存在」と「本質の存在」のほとんどが取り払われてしまうモノローグは、知識体系の構成に関わる実在検証だけでなく、概念定義の適用も含めて諸問題を解決できないばかりか「それ自体が問題である」と指摘されているのも、いまや実在についての一般法則と隔たりのある原則・規則・禁則が抱え込む危機意識は負の環境となっていたからである。
 和声学とは、常に検証分析の視点に立って説明されるものである以上、その意味において和声の過去・現在・未来という普遍項を求める作業、というより、普遍項を求めることは本質的に対象の事実に基づく作業であるから、これまで検討してきたように、国際的な認識の基準や分析の方法は時代とともに変わったのである。ということはつまり、概念規定の定義において実在性が消滅する「存在忘却」「演繹矛盾」「正誤判断」、佶屈した特殊な「和音表記法」の弊害を乗り越える必要があったということである。当然、和声基礎論が挙げて目指すのは、「人間的能動性」と「事実と本質の存在」に対しさまざまな視点を取りその諸概念を組み合わせることによって、人間には「伝統的にもっているアイディア」を「新たにつくり変える素質と能力」という創造的想像力が備わっていることを明らかにすることにほかならない。



# by musical-theory-2 | 2024-01-24 11:33 |   創造的想像力
2024年 01月 24日
実在への応答
01 - 実在への応答


「 知識の成立する条件 」


 根源的事実
 和声というローマ時代以来の伝統的実在概念は、西洋人の考えでは起源的な旋法を場としておこなわれる実在認識に由来する。この視点から見るとき、和声の全体は、いわゆる旋法もまた、人間によってつくられたもの、そしてなおつくられ得るもの、として見えてくる。つまり、旋法は実践のための第一義的な音組織と見られるのである。したがって旋法的な和声観、旋法を実践のための根本とみる和声観はこの視点のもとに成立したのであり、その上に立って 20 世紀西欧の機能的和声観も成り立っていた。こうした和声観を基盤に古典和声の概念形成がおこなわれてきたことは明らかである。そうであれば、どのような時代においても、西洋古典和声における和声観と概念形成の根源は、遠くギリシャ古典時代に端を発する「旋法ー旋法性」という実在概念にある、と理論家は考えていたのである。

    _「和声学は、当然のこととして、
          実践のための技術知の担い手である実在と顕在的潜在的に連動している」_

 ところで、こうした実践のための「技術知の担い手」つまり実在との「連動」は、ある一部の人間が意識的に無いものとして否定したり無視したりできることではない。気がついてみたら、「和声学」はそうした連動によって、すべてのものを歴史的・実践的実在とみているのである。その基礎論において「教会旋法という音楽用語」は聞いたことはある。たしかにそのような実在認識は、概念定義のなかで、概念形成のなかで起こる出来事にちがいない。しかし、その体験がもてない。それは、たとえば基本的な英語学習において「アルファベットの存在」と「その発音の仕方」を学ぶことがないのと同じである。いうまでもなく「旋法組織」は、古典和声がもつ性質に対してでなく和声すべての象徴的な実在がもつ性質に対して、すでにそれなりの「本源的な理論体系」の一環として認識されている。ちなみに、従来の和声学が教会旋法についていろいろと説明を加えてきたのも、まさに和声学の理論的な試みが依って立つ実態概念を明らかにしようとしたからにほかならない。
 また、私たちは特定対象の論述は続けているが、必然なのか、偶然なのか、実証的にほとんど何も判っていなかったのである。たしかに、あるひとつの現象がもつ概念的な意味は事象のなかの一つの概念を意味する。しかし古典和声学においても和声学全般においても、和声という事実存在は唯一論的な限定制約に従うようなものではない。そこで論じられる現象の多様は、事実考察に基づく多数の現象の結合・分離として説明されるのであって、あの疲弊した原則の上で安眠をむさぼる人間の書法認識からは包括できないものなのである。しかし、私たちの前には、人間が未だ実現されていない和声の世界を実現していった過程を事実に沿って学ぶ道がいつも用意されていることは言うまでもない。

    _「和音の進行には多様で多数の進行」がなぜ検証されるのか、
          そして「連続5度のある和声」と「連続5度のない和声」がなぜ存在するのか_

 体系的に組織される理論の真の問題とは、自己批判的機能を失った限定による対象の象徴化は果たして可能なのか、という命題をめぐり、事実の考察から得られる実践的概念を受け入れ、その有効な分析資料を新しい視点に立ってどのように検討しているか、という問題である。こういった認識基準の多くを与えてくれるものこそ理論の基本を成す必要条件である。ところで、この概念認識は一挙に行われるのではない。私たちは何らかの実践的関心を満たすために知るのである。明らかにしようとする対象が私たちにどのように働きかけてくるのかを問いかけようとする。それが私たちの思考の概念的方向であり、その方向に従って考えることが事象に対する概念の適用である。

     演奏論_ピアノ・ペダル使用法がある
     その実際を論じるのに ......
       流動感あふれるエミール・ギレリス    
       狂態と知的な奏法が共存するグレン・グールド
       流れの美しさを追い続けたマルタ・アルゲリッチ
       現代曲に果敢に挑戦したベロフ
     名ピアニストの工夫を理解することもなく
     そのテクニックについて語ることができるだろうか?

     それにしてもドイツ和声を語るのに .....      
       J.S.バッハが描いた4声体コラール
       幼い頃にもよく弾いたモーツァルのピアノ・ソナタ
       ベートーヴェンの交響曲
       シューマンの歌曲集
     フランス和声を説明するのに
       ドビュッシーがイメージした下部付加音和音
     ジャンルを変えて .....
       世界の伝統社会におけ多種多様な民族音楽
       音楽思想が存在するジャズ・スタンダードなど .....   

 このように和声分析は理論の体系づくりそのものである以上、けして人間の合理的な経験の結果を画一化することはできない。仮にそのようなことが可能なら、和声に対する必須の検証分析の道筋はそれ自体が規則禁則に限局されるということになる。いうまでもなく、実在する和声的な事実と限定制約の関係は間接的なものであり、そのような検証分析による限局的な概念規定は常に不完全なものなのである。
 とくに、多様な導音進行や並進行(連続)の表出は、それを考え実践した大作曲家が当事者である。とすれば、当事者がそれについての専門家_プロフェッショナル_である。専門家抜きで、それについての限定や不可を決めることは暴挙に等しい。もしあらゆる文化またあらゆる文化活動の可能性を規定に適合しないものとして否定してしまうなら、つまり、「実在への応答」の場を見失っていたとするなら、芸術作品はわけの分からないものとなり、馬鹿げた展示場になってしまうであろう。
 実在における表出については、否定的な概念規定で示すことができるのはごく一部分であって、大部分は合理的経験論に依拠する一般的事実がその現実性と効用性を示してくれる。それはグレゴリオ聖歌を主声部にするオルガヌム、ルネッサンス・バロックそして古典派和声である。その判断において現われる特定対象(中世的、旋法的、ドイツ的、フランス的、クラシカルな和声構造)という対象の事象や現象、すなわち実践によって現実的・具体的に統一された人間的創造性を主観的な判断基準から切り離して考えるとき、その内容を事実存在というが、この概念自体に限定制約や忌避はない。それを可能にしているのが「原理の一般性」である。和声学の対象とするものが、普通の人間が経験する和声の世界について述べている論述や事実考察の間にある相互関係であり,それを通して知識体系は構成されている構造そのものであるからだ。
 ドイツの論理学者G.フレーゲはこう述べている。たとえば、「人間という概念」の内包は「考える」「さまざまな言語を用いる」また「2本足で立つ」そして「命に限りがある」であり、単に「人間は生物である」というだけではない。とすれば、西洋音楽に関わる和声学の場合、「調性」という概念の内包は、「中世以降バロック・古典派・ロマン派の音楽」においては「教会調・長短調・その混合」、「近現代の音楽」においては「複調・多調・無調」であり、それらは「長短調」に限ったことではない。また、「古典和声という事実存在」さらには「旋律と和音進行という本質存在」は、「実在から引き離された`機能和声の原則_和音の進行・限定進行・禁則`のもとでつくられる`疑似モデル`のそれではない」の内包はその真実である。


 実証的統一体
 古典音楽における和声とは普遍的な事実ではないだろうか。また、和声の創造は美術の創造のように人類に遺伝的に組み込まれた能力ではないだろうか。たしかにいえることは、私たちにはその真実性を実証する方法がないということだ。いうまでもなく、和声の普遍的な構造特性とは、和声の歴史的・実践的な規模でいえば、普遍妥当的なものであるかは「反証」の不可能なものである。つまり事実の観察に基づく特定対象の現実的な非均質性を見い出し、この非均質性としての事実が相対的に「検証」されない限り、反証はあくまでも「仮説的」なものにすぎないのである。もし、和声構造の普遍項として、そういった実践的事実の明証性を厳密に原理的に表明していない認識基準を基本にするなら、さらに、実践によって統一される人間的思惟と歴史的存在とは関係がないと決め込んだ構造を選ぶとするなら、どうしても帰納的な概念化がもつ規定をめぐる厄介な問題が生じることになる。個々の対象之事象現象に対する概念規定が妥当であるか否かは、個々の分析結果を普遍的と確証できる認識根拠とその過程がどのようなものであるかによって決まってくるからである。

     _仮説的公理的方法による機能和声の演習課程には、
           概念的本質を扱っていないにもかかわらず、
             規則禁則を認めてくれるなら説明を始めよう、
               という意図的誘導がある。プロフェッションの能力劣化であろう。_

 知識の起源、確実性の研究および人間の認識能力の分析的批判を通し、統計学的に普遍妥当的と主張した規則禁則の成立根拠を明らかにしてきたのであろうか。この事実論述の重要性に対して恣意的に目をそらすあらゆる傾向は、理論体系としての実在性への論述的退却を意味する。仮説による機能和声の原則はここでは、なぜ論述がそのように退却するのかは問おうとしない。実は、そんな時代は終わったのである。
 現代の音楽教育現場に生きるプロフェッションが、実証研究の自然な資料などに深く耳を傾けようとしたのはつぎような実在認識からである。

     限定進行?
     分ったつもりの流されやすい
     うわべだけのものさ
     
     禁則?
     このウソっぽい建て前には
     子供でさえ首をかしげた
     
     なら「例外規則」は?
     言い過ぎたのか控え目なのか

     ところで、なぜ大勢で同じことをするのだろう
     つまらないことはみんなで力を合わせ
     少しでも早く終わらせようとしているからだ 

     だいじなことだからよく覚えておけ
     そんなものは
     水をひもでしばるようなものでしかないってことを

 このような文言は自明な情報を獲得した現代に生きる理論家たちのメッセージでもある。それぞれの単純な言葉のなかに、現代という時代の流れを鋭く感じ取る常識の骨格が織り込まれているといってよい。してみれば、実在という伝統的で自然な和声観を認識しながら実践するということは、事実存在を押しのけてしまう言葉・論理・規定を考え直し、機能和声の説明にあらわれるような、実在性を喪失した概念規定の方向と視点とを見直すことである。いまや和声学基礎論には、無定義概念によってつくられる仮説的公理的体系に代わり、現存在の実在認識に基づく 21 世紀的いわゆる実証的理論体系が構成されている_と彼らは見ている。

     限定進行の足し算で説明できるものは
     たいがいその引き算でも説明ができる

     無用な混乱を与えている曖昧な禁則
     いくら加えてもきりがない
     それが理解できても
     感覚は満たされないという焦躁感に襲われる

     スイートスポットを見きわめるためには
     何を取り去ればよいのか
     それを考えると答えは得られる

 現代の和声学において、歴史的・実践的実在に検証される現実的な和声現象を象徴的な事実としてもつ基本的基準の特徴は、分析よって明らかにされた実証的統一体に現れる概念に基づいた「和声の世界をダイナミックに動かす相対的機能システム」を具体的に提示できる点にある。「いかにしたら複数の選択肢がもてるようになれるか」を命題にしたとき、大作曲家が考えていたのもまさにそのことなのである。この一般的道理を通して、私たちの文化社会に展開する古典音楽の和声様式さらには歴史的な実践的事実の捉え方が新しくなると、同じ対象が今までと異なり新しいものになる。つまり同じ対象を別の概念と視点でとらえることで、これまでの事実の単純な説明に還元できない非論理的な問題群を解決することができるのである。



# by musical-theory-2 | 2024-01-24 11:32 |     01 - 実在への応答